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トレント様がデヴィッド・ボウイを追悼しています。


米国のローリングストーン誌に、トレント様が長文の追悼文を寄せています。
http://www.rollingstone.com/music/news/trent-reznor-recalls-how-david-bowie-helped-him-get-sober-20160126″>

トレント・レズナーは、彼がクリーンになるために、デヴィッド・ボウイがどのように手助けしたかを思い出す
「まるで師匠を失ったような感じだ」と、ボウイの死について、ナイン・インチ・ネイルズのリーダーは語る。
トレント・レズナー、2016年1月26日
トレント・レズナーは、1995〜96年のデヴィッド・ボウイとのツアーと、彼のヒーローとの出会いが、彼がクリーンになるためにどのように奮起させたかを思い出す。
私にとって、あらゆるボウイのアルバムはそれぞれの記憶と結びついている。レコードの黄金期に、私は友人の家へ行き、地下の部屋で彼のレコード・コレクションを聞いた。スケアリー・モンスターズはそれらに関して最初の経験だった。それから、私は遡ってベルリン三部作を発見し、そこから最大限の影響を受けた。’90年代前半までには、私はステージ上で観衆に対して、ボウイに完璧に憑りつかれた状態にあった。私は、彼の残したあらゆる痕跡を辿った――時と共に明らかになる彼の歌詞の手がかり、謎めいた写真、雑誌記事など――そして私は、彼という存在に自分を置き換えようとした。彼の音楽は、私が自分自身と馴染んで、自分という存在を理解する助けになった。彼は、エンターティナーには何ができるかという、可能性についての多大なインスピレーションであり、そしてそこには一切のルールが存在しなかった。
そして、’90年代中頃には、彼は私に連絡を取ってこう言った、「一緒に仕事をして、一緒にツアーをしよう」と。「アウトサイド・ツアー」の全ては、それがどんなものであったかを確認することすら困難で、シュールな経験だった――実際に、生きたその人と会えた経験は、私のどんな期待をも上回る喜びだった。彼がこれほど優雅で、魅力的で、幸福で、恐れを知らない人物であったという事実は、私にとっての新たなインスピレーションの源となった。
我々の最初のミーティングの一つで、我々は、ツアーがどういう風に進行するかについて話していた。私は意外な苦境に直面していた:一瞬で、我々は、彼が北米で売ったよりも多くのチケットを売り切った。そして、デヴィッド・ボウイが私の前座を務めることなど、この地球上にあるはずもなかった。それに加えて、彼はこう言った、「なあ、俺は誰もが俺に期待している事をやるつもりはないんだ。俺は少しばかり風変わりな新譜を作ったところだ。そして俺たちは、多くのベルリン三部作と、新譜からの幾つかをプレイするつもりだ。それは観客が見たいものではないだろうが、それは俺がやるべきことだ。そして、君らは俺を毎晩ブッ飛ばしてくれるだろう」と。私はこう思ったのを覚えている、「ワオ。俺はまさに、本で読んだ彼の大胆不敵さを目撃しているんだ」
我々は理にかなったショウをやる方法を見出した、それは全てが一つの経験のような感じだった。我々は最低限の設備でプレイした、そしてデヴィッドが出てきて、我々と”Subterraneans”をプレイする、そして彼のバンドが出てきて、我々が一緒にプレイする、そして我々のバンドは去る。私の人生で最も偉大な瞬間の一つは、デヴィッド・ボウイの隣に私が立って、彼が私と一緒に「ハート」を歌っている時だった。私は上の空でこう思った、「俺は今までで最も偉大な影響を受けた人の隣に立っていて、そして彼は俺がベッドルームで書いた歌詞を歌っているんだ」と。それは実に素晴らしい瞬間だった。
ほとんどの場合、彼に対する反応は控えめだった。真夏の屋外でのアリーナのロックコンサートの環境では、32オンスのビールを持った人々は、ステージ上で「チェンジズ」を聞くほうが、アート作品を見るよりマシだと思っていたのだろう。彼は自分のやりたい事をやっていた。それは私に強く印象付けた。そして私は、パフォーマンスに君の興味を引きたい時や、君のお金を要求するときは、いつもその事について考えている。
そのツアーでは、正直に言って、私は混乱の真っただ中だった。これはナイン・インチ・ネイルズのスターダムへのロケット進撃のまさにピークだった。それは私の人格を圧倒的に歪めつくした:ガス代も払えない状況から、君が誰であるかを知るよしもない、人々で埋め尽くされたアリーナへ行くまでの変化に対処するために。ステージ上の人格と日常の人格は、次第にその境界が曖昧になっていった。その日常に対処するための私の手段はドラッグとアルコールだった、なぜなら、それらが気分を良くさせて、能力を上げると思えたので。私のキャリアは急上昇したが、それと同時に、人間としての私の足場は急速に崩壊し始めた。私は自分がどれくらい悪い状況にあるか、完全に把握している訳ではなかったが、私は、自分が耐えられない、無謀で、自滅への道を進んでいることを密かに知っていた。
私がデヴィッドに出会ったとき、彼はそれを経験していた。そして彼はそれを受け入れていた。彼は素晴らしい妻との愛で、明らかに安心していた。我々が二人だけだった時が何度かあった、そして、彼は決して私を叱らなかった、だが、彼の言葉の含蓄は、決して私から離れることはなかった:「なあ、そこにはもっと良いやり方があるんだ、そして、それは決してどん底や死や絶望で終わる必要はないんだよ」
それからまる一年後に、私はどん底に達した。一旦クリーンになると、私は、自分が過去に起こした行動により、逃されたチャンスと損害とに、凄まじいまでの羞恥に襲われた。そして私は、我々が一緒にいた頃を思い出した、そして、もしも私が100パーセントな状態だったならば、何ができただろうかと考えている。”I’m Afraid of Americans”のビデオは、私の最悪の事態のカテゴリーに分類されている――私は正体もなく酔っていて、そして私は自分のその状態を心から恥じている。だから、それを見るとき、私は複雑な感情になる――私はその一部分に参加していることを感謝し、光栄に思うが、私は、その時の自分自身の状態にうんざりし、自分が100パーセントの状態であったらと思うばかりだ。そして、その事は私を悩ませた。
数年後に、ボウイはロスにやって来た。私は、もうほとんど素面に近い状態だった。私は、彼が私を助けた方法について彼に感謝したかった。そして、私は仕方なく楽屋に出向き、居心地悪く、恥じらっていた、たとえば、「やあ、俺はカーペットにゲロを吐いた奴だよ」という風に。そして再び、私は優雅さと温かさ、愛情をこめて出迎えられた。そして私はこう言いかけた、「なあ、聞いてくれ、俺はクリーンになったんだ・・・」私はその言葉を最後まで言えなかった、私は力強い抱擁を受けた。そして彼は言った、「俺は知っていた。君がやり遂げたことを。俺は君がそれから生還するとわかっていた」私は今でもそれを思うと鳥肌が立つ。それは、私の人生における、もう一つの極めて重要な瞬間だった。
私は、我々の関係が終わったとは思えない。それは、師のような、父親のような存在、誰か、君に忠告してくれる存在を失ったような感じだ、そして、常に愚かさの罠にとらわれやすいこの世界において、優秀さと妥協のない展望を持ち続ける場所が存在していることを、常に思い起こさせている。
パトリック・ドイルへの口述より

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トレント様とボウイが競演しているビデオはこちらです。



トレント様がボウイとの再開後に、何も言わずに抱きしめられたシーンで、私ももらい泣きしてしまいました・・・トレント様はドラッグのオーバードーズで死にかけたこともあり、ボウイもまたドラッグ禍から抜け出すためにベルリン三部作を作った経緯があります。まさに「魂で繋がりあった子弟」だったのですね。


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